Gender Free Wonderland Japan

Sayaka posted about the recent statements made on gender in education made by Minister of Education Nakayama Nariaki. He is the same minister who last November was pleased to report that in this year’s history textbooks, “it is good that such terms as sex slaves of the Japanese Imperial Army and forced Asian labor were less frequently mentioned in school history books.”

He apparently believes (link in Japanese) that “gender neutral [lit. gender free] education and extreme sex education are running rampant. There are those who might say that this is wrecking Japan.” His comments apparently continued to critique Japan’s gender neutral education system.

Sayaka points out that this is one of many similar comments by the minister and laments the fact that no one seems to have gotten across the message to the Japanese minister the importance of the foundations of an education system.

She also talks about the bewildering “return to Confucian values” movement in Japan. There is a movement to change or get rid of article 24 of the Japanese constitution which states that:

Marriage shall be based only on the mutual consent of both sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with the equal rights of husband and wife as a basis. 2) With regard to choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family, laws shall be enacted from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes.

Opposition to this comes in the form of those who argue that, “Japan has gone too far in promoting individual rights and should return to the duties of family, community and nation.” Fortunately, however, there is a counter campaign against an effort to alter the clause.

UPDATE: Jae over at Tianan saw Sayaka’s posting and decided to look up the related clause in the Korean constitution. Read more on his blog.

7 thoughts on “Gender Free Wonderland Japan”

  1. 行き過ぎたジェンダーフリーも問題だよ。
    ジェンダーフリーを実践している学校では、男女を同じ部屋で着替えさせるんだ。
    女子はたまったもんじゃないよね。
    さやかちゃんは平気なのかな?
    アタシは絶対イヤだ~!

    あとジェンダーフリー先生は女子に対して「子供なんか産むな」とか「子育てなんかしなくていい」とか言うんだよね。
    まあ産みたくないなら産まなくていいけどさ、産んじゃったら責任あるでしょ?
    学校で児童虐待を推進するなんてキチガイ沙汰じゃない?
    ねえムーミン?

  2. I seriously doubt that forcing children of both sexes to get changed in the same place (especially those old enough to have gone through puperty) is a serious wide spread problem in Japan or most places. That is hardly an issue nor is it what I think the minister was talking about.

    Besides, he is using “gender free” as a way of radicalizing the presence of “gender equality” and mixing one thing with another. There can never be a completely gender “free” education but there can be gender equal education and he is talking about one to create resistance against and criticize the other.

    While I am sure cases can be found, it is ridiculous to suggest that pro-gender equality supporters (such as myself) want to promote the teaching of “don’t give birth to children” or “you don’t need to take care of your children”

    Again that is a twist and distortion of something I certainly would support which you mention in the next line: saying that women don’t have a responsibility to have children if they don’t want them. I don’t think anyone is supporting a policy of not “taking responsibility” for children that they have. However, there are plenty of people, myself included, who believe that child care falls far too often and too strongly on the woman, who may have her own career and other goals. I believe, and I think many share my belief, that we should promote a society in which women can freely press their partner to take a greater role in child care. In other words remove the assumption – up until now prevalent, that in the case of MEN 「子育てなんかしなくていい」I am just against this as I am against saying that to women, something you completely neglect to address.

    In other words, I believe that child care is the equal responsibility of both partners, and however the couple decide to divide responsiblity for and time with the child on a daily basis, it shouldn’t fall automatically and completely on the woman – something that happens all too often in Japan as well as many other places.

    Those against this kind of attempt at reform always retreat to discussion of the woman – they are “abandoning their responsibility” to have children for the nation, they are “being selfish” by wanting their own career and not being full-time child care providers. All of this is ridiculous in my view – first because I don’t think anyone has a “responsibility” to have children, either for the nation or anyone else, if they have no desire to have children (and many women, knowing how their lives will change understandably are reluctant to do so), and second because this completely leaves out the responsibility of men.

  3. As far as I know, Middle schools in Kure-city, Hiroshima force children of both sexes to get changed in the same place as a part of gender free education.
    Some schools in Kunitachi-city do that too.

    That is the problem of Japanese gender free activists
    “don’t separate male and female” craziness.

    体育の着替え
    03.11.11 16:52:42 Eri

    うちの学校(共学の高校です。)は体育の授業の前後の着替えを男女一緒の教室でするんです。だから女子は男子がいる教室で着替えなきゃいけないんです。当然、普通にブラウスとか脱ぐわけにはいかないから、Tシャツの下からブラウスを入れてTシャツで隠しながらブラウスに着替えるんだけど、私はこれが全然できないんです。っていうかこの時期はいいけど夏で汗なんかかいてると余計できない。ブラウスが汗で全然あがらない。男子がいるから下着が見えちゃったりしたら嫌だなとか思うと余計焦ってできないんだわこれが。いつも早く着替えが終わった子に手伝ってもらわないと一人で着替えができずにモゾモゾしてます。
    うちの学校に女子更衣室がないのが(更衣室のようなものは部室しかない。)いけないんだと思うんだけど、これって学校の設備の問題だと思いません?
    みんなの学校ではどうしてる?やっぱり男子と一緒でも平気で着替えちゃうの?あの着替え方にコツなんてあるのかなあ。更衣室作ってよ~!!
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    わたしもです。
    なんで男子の前で隠しながら着替えなきゃいけないのってかんじですよ。更衣室があれば全く問題ないのに誰があんな着替え方考えたんだか・・・。

    それにしてもあの着替え方は難しすぎる。未だに誰かに手伝ってもらわないとブラウスに着替えられないし。特に夏に汗かいてるときなんかは絶対ひとりじゃできない!!この前なんか一人でブラウスに着替えようとしてたんだけど、なかなかうまくできなくてTシャツの中で無理してブラウス上げようとしたら脇のところが切れちゃって最悪!!もう嫌!!
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    そうなんですよね、昔は男女別だったのを、”わざわざ”男女一緒の着替えに変えた学校があるんですよね。理由は『男女間の性差を無くす』こと。このような『見当違いの進歩的発想』を、当事者の大人たちは『ジェンダーフリー教育』と呼んでおり、もともとは大沢真理東京大学教授が広めたものです。

    トピ主さんの学校はその被害者であり、全くもって迷惑な話ですよね。

    ジェンダーフリー教育を推進する者たちの言い分は、「生物学的性差について明らかなことは、妊娠の可能性を女性はもつが男性はもたないということだけであり、文化的性差については限りなくゼロに近づける」というものです。

    男女混合名簿の登場や、徒競走で男女一緒に走るなどは解りやすい例です。

    千葉県松戸市のあるパンフレットには、「鯉のぼり・ひな祭りは性差を助長するからダメ。男女が好む色を青・ピンクと区別するのもダメ、『お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に』も男女間の性差に繋がるからダメ」とジェンダーフリー思想に基づく内容が書かれてあり、これの是非については国会でも取り上げられました。

    最近では、静岡県沼津市の九つの市立小学校で、夏に実施した五年生を対象にした校外宿泊学習において、男女の児童を同室に宿泊させていました。

    また埼玉県では、全ての高校について男子校・女子高を廃止して共学化を推し進めようとする運動もありました。これについては、男子校・女子高の生徒が「素晴らしい伝統はこのまま残すべき」という反対署名を集めて県に提出しています。

    ここではっきりさせておきたいのは、ジェンダーフリーを推し進める者たちは男女間の『差別』を無くそうとするのではなく(差別を無くすのはおおいにけっこう)、『区別』を無くそうとしていることです。

    そのため彼ら彼女らの思想のシンボルマークとして、カタツムリが頻繁に登場します。理由はカタツムリは『雌雄同体』だからです。つまり『区別』を無くしたい訳ですね。

    http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200311/2003111100116.htm

  4. The reasons why the gender free education is not supported by many Japanese?

    – Girl’s day (mar 3) and Boy’s day (may 5) are not allowed.

    – Let boys wear skirts.

    – Boys and girls sleep in same rooms in school trips.

    – Boys and girls use same bathroom.

    – No girlish names for girls, no boysh names for boys. —“Sayaka” will be illegal for girls.

    – Let boys and girls beat each other.
    It was really done at the elementary school in Kunitachi.

    ここで男女共同参画というものを正確に定義をしてみます。平成11年の6月に男女共同参画社会基本法ができあがります。その法律を書いたというか、ほぼ自分の考えが取り入れられたんだと自認している大澤真理という東大の社会科学研究所の教授の見解を紹介します。彼女ほか当時の男女共同参画審議会のメンバーで基本法の解説書を出しています。「ぎょうせい」という出版社から出されている「21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法」というものです。そこの中に男女共同参画について詳しい定義があります。おそらく多くの皆さんが男女共同参画という言葉を聞いて理解しているものとまったく違うものがでてくると思います。
    こういうものです「平たく表現すればジェンダーとは、男/女らしさについての通念であり、社会を階層的に組織する上で一番もっともらしく使われる区別である」・・・ジェンダーとは男/女らしさということである…問題はここからですが「ジェンダーという分割線をそのままにして、ジェンダー肯定の固定的な意識を改革しようとしたり、ジェンダー役割の相互乗り入れの促進や女性の地位の底上げ等に努めても女性差別は解決できない」。少々解説します。「ジェンダー肯定の固定的な意識を改革する」例えば、男とはこういうもんだ、女とはこういうもんだ、というカチッとしたものがあって、しかしこれが行き過ぎだからこの固定的な意識を改革するということ・・・これおそらく皆さんが男女共同参画だと思っていることでしょう。しかし「そうではないのだ」と言っているのです。あるいは「ジェンダー役割の相互乗り入れの促進」例えば男の役割、女の役割というのがあります。女性の社会進出もありますから、相互乗り入れ、これまで男が担っていたけれども女にも担えるものは女性にもやってもらうという、その逆もあるという相互乗り入れ・・・・この促進でもないのだと言っているのです。さらに「女性の地位の底上げ等に努めるということでもないのだ」、こういうことをやっても女性差別は解決できないと。
    核心部分は次のところですが「セックス(生物学的な性差)に根差すとされる男女の特性は是認しつつ不合理な男女格差を解消するというスタンスの実践では女性差別を解決できない」・・・・おそらく皆さんは男女共同参画を「男女の特性は是認しつつ不合理な男女格差を解消する」ことだと理解されているのではないでしょうか。そういうものではないのだと。結論は「ジェンダーそのものの解消を志向する」・・・つまり男らしさ/女らしさ、男/女の分割線、これを完全に解消することこそが男女共同参画なのだと。こう言っているのです。
    ■カタツムリは男女共同参画のシンボル
    これが男女共同参画社会基本法をつくった当事者の見解なのです。それゆえにどういうことが起きるのか。これは象徴的な例ですが、(チラシをだしながら)千葉市の男女共同参画の広報紙なのですが、ここに4文字で「男女共同」とあってその下にイラストがあります。インク瓶にカタツムリが登っているところです。実はカタツムリというのが男女共同参画のシンボルなのです。あちこちで使われているのです。なぜか。ここにこう書いてあります「カタツムリは雌雄同体。結婚すると両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちもよくわかるなんて、ちょっぴり羨ましいような・・・」カタツムリが羨ましいと言うのです。何故か。これはいわば氷山の一角で、あちこちでカタツムリが出現するのです。場所によっては地方自治体の男女共同参画審議会のマスコットネームに「まいまいくらぶ」と言っているところがあります。「まいまい=カタツムリ」ですね・・・・カタツムリが理想だと言っているのです。男女の性差や性別役割を完全否定して雌雄同体がいいんですよ、という発想ですね。この路線にしたがっていろんなことが今、展開されていっているわけです。
    ■子育てサポーターを通じたジェンダーフリー教育
    民主党の山谷えり子さんが国会で問題にされ、産経新聞でもとりあげられましたが、文部科学省が所管している財団に委嘱してつくらせた子育て支援のパンフレット「未来を育てる基本のき」というのがあります。今、多くの家庭が核家族で若い親たちはどうやって育てていいか不安に思うこともあるし、ちょっと自分が病院に行きたいだとかパーマをかけたいとかそういうときに子供を置いていけないだとか、問題があるんですね。そこで各地方自治体が、核家族の子育てを支援するために「子育てサポーター」というものをもうけました。これは子育てを終わった女性たち、リタイアしたおじいちゃんたちですね。この子育てサポーターの人たちに向けられてつくられたのが子育て支援パンフレット「未来を育てる基本のき」です。
    これには「人間関係とジェンダーの視点から」という副題がついていますが、この中でどんなことが言われているかというと、ジェンダーフリー一色なんですね。例えば後ろのほうをみると「子供の育ちをジェンダーの視点で捉え直す」「自分の育てられ方、子育て体験を振り返ることで、子育ての日常の中にどのようなかたちでジェンダーバイアス(つまり、男だからどうだ、女だからどうだ)の偏りがないか気付かせる」…これを4・5人のグループに分かれて告白させていく、相互チェックさせるというのです。思想チェック、相互監視です。
    ■男の子がスカートをはいてもいい、と子供たちに吹き込めという文部科学省
    その中の「今なぜ子育て支援か」というところで「抱かれていない子、目をあわさない子が増えているが」と、親との接触が少ない子が増えているということにふれています。そして、この人の善意につけ込んでこのパンフレットが何を行おうとしているかというと、もうジェンダー、ジェンダー、ジェンダー、ジェンダー・・・。
    具体的にいいますと、これは産経新聞でも取り上げられましたけど、女の子に優しい愛らしい名前をつけることがよくない、男の子にスケールの大きい強そうな名前をつけることがよくない、と言っているのです。具体的に名前が挙がっています・・・みさき、ななみ、あおい、ゆうか、さくら・・・こんなこと言ったら皇太子殿下のところの愛子さまは文字通り愛らしい名前なんですから、否定の対象になります。
    さらに「節句祝い、雛祭りのお雛様はやめましょう」と言っているのです。「男の子の鯉のぼり、武者人形もだめ」「男の子は女の子にやさしくしなさい、という言い方もだめ」「女の子に礼儀正しく言葉遣いは丁寧にしましょう、と言うのもだめ」ということを文部科学省は言っているのです。少なくとも文部科学省が委嘱してつくらせている。これは今でも通用していて回収されていないのです。
    ふざけた話が満載です。「げんこつゲーム」というのが載っています。「体操しよう」と呼びかけて「首・肩を回しましょう、子供たちも一緒にやりましょう、背伸びや腰の運動もいれるのもいいでしょう」とあります。まず「胸の前で手をげんこつにして」といってげんこつをつくらせます。「このげんこつを足の裏につけてみましょう」といってつけさせます。そうすると・・・「げんこつの付け方が男の子と女の子で違っていませんでしたか。もし違っていたらなぜ違いがでるのか考えさてみせましょう(スカートだったら足を大きく開けません)。女の子がジーパンをはいても何でもないのに、男の子がスカートをはくと大騒ぎになるのはどうしてなのか、考えてみましょう」・・・何を考えろというのか、男の子がスカートをはいてもいいよ、という話なんでしょう。これを近所のおじいちゃん・おばあちゃん、子育てサポーターたちは子供たちに吹き込めというのです。
    ■思春期の子供を狙い撃ちするジェンダーフリー教育
    教育の世界では男女混合名簿からジェンダーフリー教育は始まっています。「男の子に「くん」付け、女の子に「さん」付けをやめましょう、みんな「さん」付けでいい」というのから始まって、もう馬鹿馬鹿しいことの連続です。小学校6年生の修学旅行はいま、男女混合で同じ部屋に泊まるところがあります、公立の学校では(会場からエッー?!の声)。思春期ですよ、第二性徴期ですよ、そういう時期をねらってそういうことをやるのです。
    国立市の小学校では運動会の騎馬戦は男女混合です。男チーム、女チームでやっているんじゃなくて、まさに男女混合でやっているわけです。で、お互いに殴り合う。実際、今、男女共同参画、ジェンダーフリーという名のもとに若いカップルで殴り合うカップルがいるんだそうです。男も女も殴り合う、ジェンダーフリーだから。
    福岡県の県立高校では、体育の時の着替えは男女同じ教室で着替えるのだそうです。男女共用のトイレがいま開発されているそうです。足立区ではすでに実践がありますけれど、いわゆるオカマの人を呼んできて子供たちに体験談を聞かせるのだそうです。その前にジェンダーチェックというのをさせて、子供たちのなかにある男らしさ/女らしさの意識を払拭していくというのです。そのあとオカマが登場するのです。なぜオカマなのかというと・・・カタツムリだから。「カタツムリがちょっぴり羨ましいような」というのですから、オカマの人も羨ましい存在と位置づけるのです。こんなふうにおかしな話が次々と展開されていっています。
    ■オカマを子供たちの役割モデルにしようとするジェンダーフリー教育
    時間がありませんので、ポイントだけ述べます。こんなことをやっていると、まず子供たちの役割モデルが混乱します。思春期、第二性徴期をねらってそういうジェンダーフリー教育が行われているのです。思春期、第二性徴期というのは自分が男である、女であるということを精神的にも肉体的にも意識するときです。そういう時を狙って行っていくのです。育児の世界的な権威であるスティーヴ・ビダルフという人が「男の子って、どうしてこうなの? まっとうに育つ九つのポイント」という本を書いています。最近売れている本で、その中でジェンダーフリーを批判しているのです。男の子であれば小さいときは父親を男のモデルとして、こういう男になりたい、とみるのです。女の子も母親を役割モデルとして想定するのです。そこでオカマの人が役割モデルとなったらどうなりますか・・・という話です。後天的な性同一性障害をつくっているとしか思えません。節句さえ否定するのですから日本文化を破壊しているとしかみえません。カタツムリが理想だと言うのですから人間改造をしているとしかみえません。
    ■中学生にピルを勧める厚生労働省
    そして厚生労働省がつくらせた性教育のパンフレット「教えてみたい、思春期のためのラブアンドボディブック」、全国の中学生全員に行き渡ることになっていましたが、山谷えり子先生の問題提起により問題となって回収された性教育の指南書です。しかしこれはHow to SEX の指南書になっているのです。避妊具のつけかた・・・中身はピルの勧め。なぜピルなのかというと、フェミニズムの発想によれば、ピルは女性がセックスの主導権を持てるということです。ジェンダーフリーの視線で書かれているのです。裏表紙に「女の子へ」というメッセージがあります「控え目で自己主張しないのが女らしいなんて言われるけど、自分の思いや意見はどうどうと表現していこう。特に愛と性については女の子が主体性を持つことが大事。あなたにはあなたの体と人生を守り決めていく権利がある。しなやかにりりしく生きていこう」といっている。重要なところは「愛と性については女の子が主体性を持つことが大事」・・・「性の自己決定権」というのですね、これは。女の子が性の自己決定権を持つと。
    製薬会社からお金がでてこのパンフレットがつくられているといわれています。日本ではピルが大人には普及しないんです。だから子供たちに普及させようという裏があると言われています。ピルの避妊失敗率は1%でコンドームが12%とか、コンドームの着け方とかそんなことも書いてあります。これだけエイズの問題があるのになぜピルなんでしょうか。またピルは人工的につわり状態をつくるもので、イライラします。ちなみにピルを飲んでいる人の離婚率は非常に高いと言われています。欧米では環境ホルモンだということで禁止の方向です。
    ■ヒッピー文化にかぶれたおかしな連中が国の中枢にいる
    なぜピルなのかというと、背景はフリーセックスなのです。実教出版が出している高校の家庭科の教科書「家庭一般21」、これなんかフリーセックス一歩手前です。教師用の指導書は「性の解放」といって完全にフリーセックスを打ちだしています。こういうのが日本の教育界の現況です。一部かと思えばどうもそうではない。
    なぜフリーセックスなのかというと、かつて60年代70年代、日本でもヒッピー文化というのが流行りました。彼らは反体制で家族もいらない、自分たちで勝手なサークルをつくって、その中でフリーセックスを行なっていた・・・こういう連中がいま社会の中枢に入り込んでしまっている。文部次官が暴力革命を肯定したようなことを言っているのは、彼もこのカルチャーの染まったことを暗に暴露しているわけです。フリーセックスを求めるようなヒッピー文化にかぶれた連中がいま、国の審議会に入ったりとか、有力な官僚になったりとか、あるいは大学教授になってそれらを支援したりだとか、そういうことになっている。背景はそうだと思うのです。
    そんなことを考えているのは国民の極々少数です。しかし、このようなおかしな考え方をしている人たちが中枢にいるということも現実なんです。今、彼らは少数かもしれないけれども、こういう教育が行われれば30年後には彼らの考えは多数派を占めているでしょう。これを彼らは狙っているとはっきり書いています。彼らによれば「学校は価値の再生装置」だと。良くも悪くも学校は価値の再生装置なんです。彼らの価値を子供たちに吹き込んでいけば、それがどんどん増殖していくわけです。
    ■必要なのは次の世代を育てるという子供を思う心
    悲観的な話で、ではどうすればいいのか・・・アメリカ、イギリスの話をあえてしたのは、サッチャー政権、レーガン政権の誕生によって、それらの国は大きく変わった、動かしたのは実は国民運動だった、というのがいいたかったことの一つです。彼らは「基本に立ち返れ」と言ったんです。「基本に立ち返れ」とは、学力や規律ということもありますが、人間としての、日本人としての基本というものがある、それに返れ、ということです。サッチャーのところで触れた「品質保証国家」というのはとりわけ注目すべきことだと思います。国民の品質を保証する国家、国民が責任を持って次の世代の国民をいいものに育てあげる責任を持っているということです。
    冒頭に外務官僚の話をしましたが、彼らの責任感の無さ、国を思う心の無さ、冷酷非道で血も涙もない・・・文部官僚もどうもそのようですが・・・そうではなくて、必要なのは次の世代を育てるという子供を思う心、同時に国を思う心です。また大人としての責任感。

  5. 本文の趣旨を取り違えるばかりか、失礼な書き込み方をしているコメントや、品川区つくる会のページをリンクだけはればいいのにわざわざ全文ペーストしてある上記のコメントなど、私だったら絶対削除していることでしょう。そういうコメントの中身の非論理的な部分、立証されない部分、簡単に反駁できる部分を全て書き出すととてつもなく長くなるので、要点のみコメントします。
    1、性教育、Gender Equality教育は、それがどう解釈され実行されるか、という点で議論が分かれるが、実行の必要性は疑いがない。文部科学大臣の発言の問題所在は、この点を否定しているところ。2、男子女子の着替えの問題は、個人の基本的なプライバシーに関わるので、ジェンダー教育と関わりなく、保護者が学校に提起すべき問題である。3、Gender Equalityの基本は、性別に関わりない個人の意思と自由の尊重である。(that’s why boys can wear skirts if they want to, so do girls; boys can have names that are traditionally considered feminine, so do girls. It’s all about choice, freedom and awareness, not about obligation, prohibition and enforcement.) 4、There is always conflicts arising between human rights and traditional values, but traditions, no matter how good/long they are, cannot constitute an excuse to continue oppression.

    The previous comments by two Japanese people are totally off the point in my view. Looking at the pasted comment from the Shinagawa Tsukuru-kai’s page, I am always amazed at how they lead a conclusion about 日本人としての基本 out of those gender issues. How can those people believe everything will be solved if we gain “love and pride for our country” and return to traditions?? It’s a fascinating phenomenon as a whole, isn’t it?

  6. Fascinating….so my visitors are (as Kotaji suspected) indeed supporters (or at least readers and users of material from) the infamous 新しい歴史教科書をつくる会 (the nationalist association supporting the new revisionist textbook…

  7. 悲しいことに、日本の教育現場では、「ジェンダーフリー教育」とは上に挙がってるようなトンデモ教育を指す言葉になっちゃてるのよ。

    カタカナ英語をそのまま英語に直したんじゃ、議論が噛み合わないのも当たり前。
    「ボクはマンションに住んでいます」

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